西洋医学に見放され、余命1年の宣告にも負けず、自己治癒力で勝負しています
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初めて救急車に乗った

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ガンを宣告されたその日に帰国を決断、3日で荷物をまとめて日本に帰る準備を整えた。前々から帰ることが分かっていたのではなく、普通に生活していた人がある日突然3日後に帰りなさい、と言われたようなものである。引越しの手配、車の処分、賃貸契約及び公共料金その他もろもろの解約など、目が回る忙しさだったが、それでもけっこうなんとかなるものだなと思った。大腸内視鏡で全部出すものは出してあったおかげで、私の体調もこの3日間だけはさほど悪くはなかったので、本当に助かった。それにしても、今回は長くアメリカに住むつもりで高級家具をそろえたので、それをすべて無料であげてしまうのはなんとも悲しかったが、もうムービングセールなどをやってる時間はなかったのでしょうがない。

まず第一番目の問題の発生は、まさに日本へ帰る日の空港で起きた。今回は体調が悪かったこともあったので、機内で寝れるほうがいいと思い、清水の舞台から飛び降りるつもりで、な・なんともう一生乗ることはないであろう、ファーストクラスのチケットを購入したのだ!そして朝何も知らない私たちは予定通りサンノゼ空港へ向かった。チェックインカウンターで聞かされた事実は、まさに耳を疑う衝撃的なものであった。「成田空港が大雪で閉鎖のため本日は飛行機は飛びません」・・・・。私は目の前が真っ白になり、倒れそうになった。まさに1日でも早く日本に帰らなくては!!という思いで、必死にこの3日間で引越しを完了させたのである。しかしいくらその場で怒鳴ろうがわめこうが、飛ばないものは飛ばないのだ。というわけで、しょうがなく航空会社から紹介された空港近くのホテルにもう1泊することになってしまった。しかし、これが実は後で私にとっては超ラッキーになるのである。

ホテルに入って、とりあえず何とか日本に帰る手段はないものかと、いろいろなところへ電話しまくった。成田がだめなら関西空港があるではないか!サンノゼー成田の直行がだめなら、サンフランシスコやロサンゼルスや、とにかくどんなルートでも、いくらかかろうがかまわない。当時はそのぐらい焦っていたのだ。しかし、努力もむなしく、その日日本に帰れる方法は何一つなかった。このときばかりは、アメリカと日本の距離の遠さを恨んだ。

二番目の問題発生はホテルで起きた。昼前になって、肛門痛が激しくなってきた。その痛みはどんどん強くなってきて、昼に1度泣き叫ぶぐらいの激痛が走った。大激痛は5分ぐらい続き、しばらくすると落ち着いてくる。しかし落ち着いてくるとは言っても、泣き叫ぶぐらいではないというだけで、痛みはかなり激しいものだった。この日は食事をとることもできず、ただただベッドで泣きながら痛みと闘っていた。そのうち、このままでは飛行機の10時間も耐えられないのではないか、という不安が募ってきた。ファーストクラスとはいえ、さすがに機内で泣き叫ぶわけにはいかない。それにそんな重病の人は、そもそも飛行機に乗せてもらえない。だから健康なフリをしないといけなかったのだが、その演技すらままならないような状況であった。日本にこのままでは帰れない・・・・。ものすごく不安になった。そして激痛の間隔がだんだん狭くなってき、1時間に1度ぐらいのペースで泣き叫ぶ、いわゆる痛みの強さを1から5で表すところの5のレベルがたびたび襲ってくるようになった。

そこで主人が考えたのは、成田空港に救急車を待機させておくという計画だった。私もその計画に同意した。とにかくなんとか10時間のフライトにだけ耐えなければ!!そう覚悟した。しかし、夜中の2時にもう我慢の限界がきた。もうこれ以上我慢できない!ましてや10時間のフライトなんて到底耐え切れない!!というわけで、とうとうアメリカの救急車を呼ぶことにしたのだ。生まれて初めて乗った救急車が、まさかアメリカになろうとは・・・。まずはホテルのemergencyに電話、ホテルから救急車に連絡、10分ほどで屈強な救急隊員たちが6、7名だろうか、ぞろぞろと部屋に入ってきた。そして私に症状を質問してきて、脈をとったりした。そのときは痛みのレベルは3ぐらいになっていたので、なんとか受け応えはできた。だから救急隊員たちも安心してしまったのかもしれない。救急病院に搬送され、なんとその場に30分ぐらい放置されてしまったのだ!その間にまた最高レベル5の激痛が私を襲った。私は冷たい処置室のベッドで「早くしろよ!もう耐えられないんだよ!!」と日本語で泣き叫んでいた。

さんざん待たされた挙句、ようやく医者が来た。そして私のお尻にブスッと注射を突き刺した。するとみるみるうちに痛みが和らいでいき、私も落ち着きを取り戻した。しかし、相当強い痛み止め(恐らくモルヒネ?)なのであろう。痛みはなくなったが、起き上がるとものすごいめまいと吐き気をもよおした。目はうつろになり、よろよろとなんとか抱えられながら歩けるような状態であった。会計を済ませ、タクシーを呼び、その足でドラッグストアに薬を買いに行き、ホテルに戻ったのはもう明け方の6時。9時にはホテルを出ないと行けないから、正味寝られるのは2、3時間だった。でも痛みがなくなったのと、ほぼ1日中痛みと闘った疲れとですぐに眠ることが出来た。

こうしてぎりぎり飛行機に乗る前に痛みがなくなり、10時間のフライトも無事過ごすことが出来、成田空港に救急車を呼ぶ必要もなく日本に帰国できたのであった。よって大雪によるキャンセルは、まさに不幸中の幸いだったのである。もしあのまま飛行機が飛んでいたらどうなっていたか・・・!?想像するだに恐ろしい。それにしても、せっかくファーストクラスに乗ったのに、食事はほとんど食べられず、高級なワインも飲むことが出来ずで、ただただフラットになる快適シートで寝ているだけであったのはなんとも悲しかった。

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続きの記事

(19) このブログについて
(20) 自覚症状が出始めていた時期の話
(21) 初めて痔を経験
(22) 大腸内視鏡を受けるまでの症状
(18) 大腸内視鏡検査、そしてガンの宣告
(24) 待ちに待った検査結果

著者プロフィール

みづき
1970年東京生まれ、女性。既婚。子供はなし。米国シリコンバレーのIT企業のCFO、および日本のコンサルティング企業の役員としてそれぞれ在職中。2006年1月、米国西海岸(シリコンバレー)在住中に癌を告知され、急遽帰国しました。現在は東京・新富町(築地の近く)の自宅にて末期直腸癌(ステージⅣ)で闘病中です。
この写真は、2005年12月8日、サンフランシスコのお世話になっている弁護士事務所のクリスマスパーティに出席したときのもの。これが最後の飲み会でした・・・。お酒をこよなく愛した私も、お正月以来一滴も口にしていません・・・。また飲める日が来ると信じてがんばります!