西洋医学に見放され、余命1年の宣告にも負けず、自己治癒力で勝負しています
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安らかに息を引き取りました

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【写真】みづきが書いた七夕短冊です。昏睡状態から覚醒した直後あたりの時期で意識朦朧や手足麻痺が残る中、自分の事ではなく「願い事はただ一つ。家族の健康と幸せ」との願いが書かれてありました。

先日(8月23日)午後6時43分。みづきが他界しました。

私、夫と父母の3人が見守る中、あまりにも安らかな死でした。その日の朝6時頃、血圧、体温、脈拍も計測困難で呼吸が浅くなり、そろそろかもという段階まで一度は行ったものの、その後自然に持ち直して、日中、一時は血圧92までにも回復し、一度だけこちらに話しかけているような仕草をしたので、喉が渇いているのかなとスポンジでいつものカフェオレを少量与えました。最期は、普通に呼吸をしていたのが自然に止まり、次の呼吸が無かった事で私達3人はナースコールをしました。呼吸は浅いながらも始終安定していて、寝顔も普通に寝ているような表情でしたので、苦しみは無かったようです。例えるとロウソクの火が自然に消えるような感じでしょうか。

土曜日のため、みづきをいつも病棟で診て戴いていた先生方はお休みで、当直医の先生は当然いらっしゃったのですが、わざわざ外来の頃から診てくださっていたY先生が、これもお休みのところ、恐らく自宅から駆け付けてくれました。今となっては死亡診断のみなので、一分一秒を争う必要が無いのに病棟に入る際にも走って来て戴いて、その真摯な姿に私は心を打たれました(私は電話をするためエレベータホールにいて、たまたま見掛けました)。そして最期の診察(死亡診断)の際も、じっくりとみづきを回想しつつとても丁寧に診て戴きました。顔なじみとなった看護師さん達も次々と最期のお別れに来て戴き、事前にみづきの希望を聞いて用意しておいた結婚披露宴の際にも着た最期のドレスを着るのと化粧も看護師さんにして戴きました。最期まで温かい医療スタッフやボランティアさん達に囲まれて本当に聖路加国際病院で良かったと家族はもとより、みづきもそう思っている事でしょう。とても素晴らしい病院でした。

実は脳転移が発覚した6月中旬、みづきが倒れる少し前から、もしもの際のために葬儀をどのように行うかを、みづきと話し合っていました。みづきには余命数週間という話もしましたが「そうなんだ」と軽く驚いた程度で、しっかりと現実を受け止めていました。しかし、この時点でも復活を諦めていた訳ではありません。なので、院内をとにかく歩いて運動するなどの復活メニューを以降も変わらずに続けています。人事を尽くして天命を待つというポリシーのもと、MRIの脳転移を示す結果や伝えられた余命日数は、みづきと私に対し動揺や狼狽を与えるものではありませんでした。ただ、可能性としてあるのであれば、クリアしておこうという判断で葬儀について一緒にプランを立てたのです。

そして、その葬儀についてですが、家族葬として行いますので、親族以外の方への日程・会場のお知らせは差し控えさせて戴きます。その後、四十九日より後になりますが、みづきの偲ぶ会を開催して、その際に友人知人を始めとした方々と在りし日のみづきを語り合う場を設けたいと考えています。みづきの遺志により湿っぽいのは嫌との事なので、偲ぶ会というよりは普通のパーティに近い形にしたいと思います。

それでは、本ブログ「みづきの末期直腸ガンからの復活の記録」の最後の総括として、あと一度だけ記事を投稿します。当面、ばたばたすると思いますので、一週間後を目安に掲載できればと思います。

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(604) 闘いの終焉

著者プロフィール

みづき
1970年東京生まれ、女性。既婚。子供はなし。米国シリコンバレーのIT企業のCFO、および日本のコンサルティング企業の役員としてそれぞれ在職中。2006年1月、米国西海岸(シリコンバレー)在住中に癌を告知され、急遽帰国しました。現在は東京・新富町(築地の近く)の自宅にて末期直腸癌(ステージⅣ)で闘病中です。
この写真は、2005年12月8日、サンフランシスコのお世話になっている弁護士事務所のクリスマスパーティに出席したときのもの。これが最後の飲み会でした・・・。お酒をこよなく愛した私も、お正月以来一滴も口にしていません・・・。また飲める日が来ると信じてがんばります!