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病気にならない人に対する説明がない(本編)

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昨日の告知どおり、今日は午前中にブログを書いてしまおうと思う。8時15分に痛みで目が覚め起床、急いでりんごを剥いて軽く空腹を満たした後8時45分にボルタレンを服用(本当はボルタレンの服用時間は9時なので15分前倒し)、9時半ごろにようやく効いてきた。昨日寝るときから今日の目標はこのタイトルでブログを書くぞ!と気合を入れていたので、今朝の目覚めはいつもより若干爽やかだったような気がする。やはり人間、明確な目標・目的を持ち、しかもそれが楽しいものであったりすると、朝の目覚めもいいようである(^^)。

早速本題に入ろうと思うが、以前からこのこと(タイトルのこと)は感じていた。自然療法では病気の原因は食事の乱れ(=欧米型の食事)やストレス、運動不足だといわれ、病気はそのことを教えてくれるありがたいメッセンジャーだという位置づけだ。私の場合はたまたまガンになったが、ある人には風邪という症状で現れたり、ある人には糖尿病やアトピー、あるいは心臓病などで現れたりする。よって病気に罹った人は、病気からのメッセージを読み取り、そこを改善すれば治るというのが自然療法の考え方である。そして私の場合は、ガンからのメッセージはいろいろあるが、まずは食習慣の改善と運動不足だと思ったので、現在一生懸命それを改善しようとがんばっているのである。

私の口内炎がなかなか治らないという話を発端に、12月28日の記事に対して非常に多くの方からありがたいコメントをいただいた。りんごやチーズはだめだ、ジュースにして飲んではどうかという食事に関するアドバイス、パワーゲームから外れたところで病気を受け止めるようにすべきだ、もっと笑って、もっと楽しんで、もっとバカなことして、今の時間をもっともっと楽しむことが一番の治療法だという精神面でのアドバイスなどをいただいた。心の持ち方として以下のように書いてくださった方もいた。長文なので一部抜粋してそのままの文章を掲載させていただこう。

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私自身が、病気になる前と変わったのは、

ただ生かされているんだということです。

全部。

偶然にね。

そう思うんです。

そういう何か辛い流れ。

どうしようもない、自分の力を超えたもの。

私が今生きているのも、偶然で

見えない力に生かされてきたに過ぎないな。

と思うんです。

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私も、かつては自分で生きているんだと思っていたし、自分の体は自分の物だと頭で思い込んでいたんですが、病気になって、ヨガをするようになって思ったのは、「私は体の発する声を聞いていなかった」ということ。

「私」という心は体の管理をまかされているだけ。

体は自然が作りだしたもので、私が作ったものではなく、ましてや所有物でもなく、体は体で「私」と別の心を持っている。

だけど、病気は、私の不摂生やゆがんだ心が生み出した様々なものを、体は細胞の死によって浄化してくれているのだから私は、これに感謝しなくてはいけないんだなと思うようになりました。

病気を敵だと思っているうちは、前の方がコメントなさっているように、勝つか負けるかしかなくなってしまうように思います。みづきさんの日記を見ていると、あまりにも頭であれこれ考えすぎて、自分で自分を追い込んでいるように感じてしまったので、長文になりましたがコメントさせていただきました。

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どのコメントもまったくその通りで、私の心に染み入るものがあった。私は基本的には自然療法の観点からすべて考えているので、上記のアドバイスは今まで私が勉強してきた自然療法的な考えそのものであるからである。だから口内炎ができたときもそのメッセージを読み取ることに努力したし、最近は特に「心の持ち方」について深く考えるようになった。

しかしこのように原因を考えたりその対処法を考えたりすると、一方で常に同時に浮かんでくるある思いがある。それが「病気にならない人に対する説明がない」ということである。今まで私が読んできたすべての本がそうなのだが、病気になった人に対しては、これが原因だとか、だからこれをすれば治るとかいうアドバイスは書かれているのだが、病気にならない人に対する説明は一切書かれていないのである。例えばコメントにアトピーをヨガで克服したという実体験を書いてくださった方が、「病気は、私の不摂生やゆがんだ心が生み出した様々なものを、体は細胞の死によって浄化してくれているのだから私は、これに感謝しなくてはいけないんだ」と書いていたが、確かに私もそのように本で学んだ。しかしそれでは無病息災で一生を終えた人は、何一つとして不摂生やゆがんだ心というものを持っていなかったのだろうか?さらに言えば、私のように若くして病気を発症する人と、年老いてから発症する人ではどのような差があるのだろうか?私のほうが不摂生しすぎていたのだろうか?それとも心がゆがみすぎていたのだろうか?何度もこのブログでこの点についての疑問を提唱しているが、やはりこの点だけは何度考えてみても分からないのである。そして結局行き着く先は先日も書いたが「許容量」なのである。だってそうしないとどうしてもつじつまが合わないんだもの。

私が時々通っているOクリニックは、中国やロシアの長寿村の研究を長年続けてきており、長寿の秘訣として食事と身体を動かすことと精神的なゆとりと結論付けている。彼らの食事はとうもろこしなどの穀類が主で、他は季節の野菜を少々という食生活である。高山に住んでいるので、魚介類はなし、肉も食べない。自給自足なので、日々の生活そのものが運動となり、100歳過ぎても毎日身体を動かしている。小さな村で敵もなく過ごしているので、毎日笑いが絶えず人生を謳歌している。確かに彼らが100歳以上生きているという結果から考え、こういった村にはガンや糖尿病などの現代病はほとんど発生しないことを考えると、それらが重要なファクターであることは明らかである。

しかし、例えば私の曽祖父は86歳で老衰で亡くなった。確かに今の私たちの生活から比べれば曽祖父の生活は質素であり、また性格もとても穏やかなすばらしい人であった。でもそれが病気にならなかった理由と結論付けられるのだろうか?少なくとも戦争というものすごいストレスフルな時期を体験しているわけだが、それは病気の原因とされるストレスにはカウントされないのだろうか?

また祖父は80歳近くで食道がんを患い、その後5年ぐらい闘病生活をした後で他界した。いわゆる猛烈サラリーマンだったのでそのストレスはものすごいものだったと思うし、食事だって戦後かなりの長い年月はいわゆる現代食といわれるものを食べるようになっていたので、食事の乱れも不摂生もかなりしていたと思われる。海外生活を経験したこともあるだけに、あの年代の人にしては朝食はパンだったりと、かなりハイカラないわゆる欧米食を好んで食べる人だった。運動だって接待ゴルフ以外は何もしていなかったはずだ。このように病気になった暁にはいくらでも原因として挙げられるものがあるにもかかわらず、80歳になるまで病気一つしなかったのはなぜなのだろう?恐らく50歳でガンになっていたとしても同じことを原因だと考えたであろう。なのに80歳になるまで病気しなかったのは、原因がなかったからではなくて、許容量に達していなかったからなのではないだろうか。

yasさんが胃潰瘍を例に挙げてコメントしてくださっていたが、やはりそういうことなのだと思う。やっぱりつまるところ「許容量」なのだ。胃潰瘍の原因として、胃酸の強さ、ピロリ菌、ストレス等々いろいろな要素が挙げられるが、これらがすべてあったとしても胃潰瘍にならない人もいるし、どれか一つだけが過多になっただけでなる人もいる。胃潰瘍になった場合は、過去を振り返ることである程度の原因を突き止めることができるが、現状胃潰瘍になっていないからといって、決して胃酸が弱いとかピロリ菌がないとかストレスがないとかいうことではないのだ。単にまだ病気を発生させるほどの許容量に達していないというだけのことなのである。

こう考えてくると、ますます「病気はメッセンジャーである」という考え方が理解できなくなった(^^;)。繰り返しになるが、確かに病気になった人に対しては明らかに改善すべき点があるというメッセージがこめられているのは分かる。しかし上の例が示しているように、病気になっていなくても改善すべき点をたくさん持っている人はいくらでもいる。なのになぜメッセージが来ないのであろう?

私が当初ガンになったとき、サイモントン療法のカウンセラーに言われたのは、「あなたは若くしてガンに罹りメッセージを受け取ることができたのだからむしろ幸せな人なのだ。なぜならガンを克服した暁には、今まで以上の幸せが手に入れることができるから。」ということだった。そのときは素直にそう思って、変な話、癌になったことを喜んでさえいた。しかし今こうして考えてみると、やっぱりガンにならずに一生を過ごせたほうが明らかにいい。どんなに不摂生しても長生きできるのであれば、そのほうがいいではないか。確かに私がガンを克服したら今まで以上の健康が手に入るとは思う。しかしそれはあくまでも「一生今の生活を続けたら」という条件つきである。ガンが治って普通食に戻した途端再発した、という話はよく聞く。よって一生玄米菜食は続けなければならないのである。だとしたら、私の祖父のように、おいしいものをたらふく食べ、おいしいお酒をたらふく飲んで、死ぬ間際にガンにかかってもいいではないか?何もこんなに早くにメッセージを受け取らなくたっていいではないか!!

今日の記事にもばっちりと私の揺れる心が書かれているが、本当に私自身何がなんだか分からなくなってきている今日この頃なのである。ぜひこんなふらふらしている私にみなさんの愛の鞭を!!皆さんからの応援、批判、なんでもお待ちしています!!何度も言っていますが、コメントには新旧問わずすべてに目を通しているのでご安心を。28日のように一気にたくさんのコメントをいただくと、なかなか考えがまとまらずその日にすぐに返事は書けないこともあるが、決して読んでいないとか、コメントを軽くあしらっているとかいうことではないので誤解のないようにお願いしたい。

それにしても今日は久しぶりの大作を書き上げ、私の心は大満足(^^)。書いている間はすごく集中していたので痛みを感じることがなかったが、さあこれで書き終わったらどうなることやら・・・。かなり長時間座っていたので、そっちの疲れからも痛みが発生しそうだ・・・とほほ・・・。昨日は2度もレスキューのお世話になってしまったが、今日はお世話にならずに過ごせるよう願う。

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(309) 今できることをとにかく実行すればいい
(310) 撃沈時間がなんと7時間
(311) ガン克服の共通キーワードは「マインド」
(312) 私の大好きなお正月モードも今日で終わり
(313) びわとともに私も成長した1年だった
(314) 便意さえなければ快適なのに

著者プロフィール

みづき
1970年東京生まれ、女性。既婚。子供はなし。米国シリコンバレーのIT企業のCFO、および日本のコンサルティング企業の役員としてそれぞれ在職中。2006年1月、米国西海岸(シリコンバレー)在住中に癌を告知され、急遽帰国しました。現在は東京・新富町(築地の近く)の自宅にて末期直腸癌(ステージⅣ)で闘病中です。
この写真は、2005年12月8日、サンフランシスコのお世話になっている弁護士事務所のクリスマスパーティに出席したときのもの。これが最後の飲み会でした・・・。お酒をこよなく愛した私も、お正月以来一滴も口にしていません・・・。また飲める日が来ると信じてがんばります!