西洋医学に見放され、余命1年の宣告にも負けず、自己治癒力で勝負しています
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さらに追い打ちをかける医者からの一言

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前日半分抜糸、今日全部抜糸し、明日からはシャワーも浴びていいと言われた。手術からたったの8日で、ものすごい回復力だ。この回復力は別に私にだけ特別備わっているものではなく、どの人間にも備わっているものだ。心も明るく、食欲もあり、元気に散歩や階段昇降もでき、便が出にくいことと夜あまりよく寝られないことだけを除けば、健康な人となんら変わらない。

このように外科的な治療はほとんど終了したところで、私の場合は、今後抗ガン剤治療をしていかなければならないので、外科から内科にバトンタッチになった。内科医から今後の治療方針について説明があるので来てほしいと言われ、主人と母と3人でミーティングルームへ向かった。

先方は消化器内科のK先生、それとレジデント(研修で来ている医者)のA先生が座っていた。まずは私の現状の説明(開腹したが腹膜転移及びその他複数の転移が見られたため原発ガンについては取れなかったこと、卵巣にも転移があったので右卵巣だけは摘出したことなど)がなされ、よって抗ガン剤による治療が必要だという説明がなされた。次に抗ガン剤の種類、副作用、奏功率などの説明がなされた。その後である。私にとって衝撃的かつさらに追い打ちをかける一言が浴びせられた。「あくまでもこれから行う治療は延命治療です。延命したとしても2-3年でしょう。しかし緩和ケアなども整っていますから安心してください」。

私は即座に聞き返した。「え・延命ですって?抗ガン剤でガンを叩いて小さくなったらまた手術するんですよね?」「手術はもうありえません」「え?でも外科のA先生は小さくなればまたできるっておっしゃってましたけど」「認識を変えてください」「・・・・」その時点で涙が溢れてきた。私は涙声でこう言った。「副作用等でつらい思いしてまでちょっと長く生きたってしょうがない。延命は必要ありません。抗ガン剤をやらなかったらどうなりますか?」「余命8ヶ月ぐらいでしょう。それにこのまま放っておいてガンが大きくなったら腸閉塞になって人工肛門になってしまいますよ。そのほうがかえってつらくて痛い思いをしないといけなくなりますよ」

八方ふさがりだった。腸閉塞の大変さは話に聞いているし、せっかく人工肛門を避けられたというのに、死ぬまでのほんの短期間のために人工肛門になるなんてまっぴらだ。抗ガン剤をやるしか選択の余地はなかった・・・。私だけでなく、主人も母もまた手術できると思っていたから、私同様相当衝撃を受けていたようだ。ましてや私が悲しみで泣いているのを見て、主人も母も涙を目に一杯溜めていた・・・。

一通りの説明を受けミーティングルームを出た私たちは、病室にはすぐに戻らず、気持ちを落ち着けるため、待合室にある個室に入った。私は涙が止まらなかった。外科のA先生からは余命1年ぐらいと聞いていたのに、さらに8ヶ月と余命まで短くなっている。さらにはもう完全に治る道は絶たれ、あとはいかに安らかに死を迎えるかというだけのものになったのだ。

悲しみにうちひしがれる私を、主人は一生懸命励ましてくれ、さらに母の前で少々照れたが、そんなこと関係なく私の肩を抱いてくれた。とてもうれしかった。主人のやさしさをひしひしと感じ、ああこの人と結婚して本当によかったと心から思った瞬間であった。

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(37) 退院したくない!
(38) 治療方針の決定、主治医は主人
(39) 自分の恵まれた環境に感謝!
(42) 退院、そしてこれからが本当の闘病生活
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著者プロフィール

みづき
1970年東京生まれ、女性。既婚。子供はなし。米国シリコンバレーのIT企業のCFO、および日本のコンサルティング企業の役員としてそれぞれ在職中。2006年1月、米国西海岸(シリコンバレー)在住中に癌を告知され、急遽帰国しました。現在は東京・新富町(築地の近く)の自宅にて末期直腸癌(ステージⅣ)で闘病中です。
この写真は、2005年12月8日、サンフランシスコのお世話になっている弁護士事務所のクリスマスパーティに出席したときのもの。これが最後の飲み会でした・・・。お酒をこよなく愛した私も、お正月以来一滴も口にしていません・・・。また飲める日が来ると信じてがんばります!