<写真の説明>義母手作りのかぼちゃの茶巾絞り。味付けは何もなし。材料はかぼちゃと小豆だけだが、見かけがおいしそうだと味がなくても十分食べられる
ただ今お昼の12時過ぎ。この時間に、このタイトルでブログを書く予定はまったくなかったのだが、あるメールを読んだら涙が止まらなくなり、衝動的に今ブログを書き始めている。
メールの主は父の友人H氏であった。昨日私の両親がH氏のところに遊びに行ったそうで、そのメールにはこう書かれていた。「お父さんはスキーに行ったりして一級障害者(父は心臓のペースメーカー手術を先日受け、一級障害者に認定された)とは思えないほど元気だったが、お母さんは疲れているように見えた・・・。そして普段食べない甘いもの(母は酒飲みなのであまり甘いものは好きではない)をおいしそうに食べていた・・・」と。それを読んだら急に涙がポロポロと溢れ出てきた・・・。恐らく疲労によるものだと思うが、現在母は腰痛がひどくて動くのもつらい状況にあり、ほぼ毎日接骨院に通っている。それにもかかわらず一日おきに私のところに手伝いに来てくれている。私にマッサージをしてやりたいという理由で・・・。どちらかというと母のほうがマッサージを必要としている身体なのに・・・。
義母についてもそうだ。写真のようにいつも義母は工夫を凝らしていろいろなおいしい料理を持ってきてくれる。その義母も現在は胃痛に悩まされており、胃薬を服用中だ。このようにみんな自分も具合が悪いのに、私の為に一生懸命動いてくれているのである。よく考えたら私の両親も主人の両親も一見若くて元気そうに見えるが、なんといってももう60過ぎの年寄り(今の時代は60ぐらいでは年寄りとは呼ばないかな?)なのだから、どこかしらか調子が悪いのは当然である。普通であれば私のほうが両親らの面倒を見なくてはいけないのに、私がこんな状態なので逆に両親らにおんぶに抱っこの状態である・・・。
主人ももちろん私のために必死になって動いてくれている。最近はびわの葉温灸などはうちの両親にバトンタッチとなったが、毎日ニンジンジュースは作ってくれているし、何よりも私にかかる多額の治療費を稼ぐために必死に働いてくれている。主人のおかげで高額な有機野菜を気にすることなく買えるし、高額なリンパ球治療も受けられるのである。
ガンになりたての頃読んだ本に、ガン患者が味わう苦しみはなにも病気(治療や死への恐怖)の苦しみだけではない、他に「経済的な苦しみ」「家族の愛が得られない苦しみ」「仕事や社会的地位を失うことの苦しみ」があるので、病気の苦しみは避けられないとしてもせめてこれら3つの苦しみが一つでも少なくなるように努めなければならない、と書いてあった。そして見事に私には病気以外の3つの苦しみがないのである。これも私が恵まれていると言われる所以である。
昨日のコメントの中に、そんな私の恵まれた環境について書かれたコメントがあった。非公開設定になっていたのでみなさんはご覧になれないが、私にはこうした強力なサポートしてくれる家族がいるのだから絶対に治るはずだから、焦らずじっくりがんばってください、という内容であった。その通りだと思った。ガンと闘い始めたときに、なかなか私のように恵まれた環境にいるがん患者は少ないので絶対に克服できる!いや、しなくてはならない!と強く思ったものだ。この恵まれた環境に対する感謝の念を忘れたことはもちろんないが、時間がたって日常化してしまうとたまに感謝の念が薄れてくることがあるので、昨日のコメントと今日もらったメールによって再び感謝の念が強く沸き起こってきたことはありがたいことであった。
多くの方から何度も指摘されている「肩の力を抜く」という言葉だが、危険なのはそれがともすれば「怠ける」ことにつながってしまうことである。1月3日の記事に対するねねさんのコメントにとてもいいことが書いてあった。ラクをすることは「楽をする」ことではない。「ラクに息をすること」だと。「人生を愉しむこと」だと。家族の協力を無駄にしないために、その言葉を強く肝に銘じた私であった。
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